本日、日野市民会館(日野市れんがホール)にて、『不登校』を考えるシンポジウム〜子どもの願いに応える教育を〜
というテーマの講演会がありました。
主催は、日本共産党都議会議員 清水とし子事務所でした。
シンポジウムにあたり、フリースクールからの話しとして寺子屋のびの〜びの代表として私、森美歌がパネリストとして話しをする機会を頂きました。
他には、保護者からは荒川さん(2022年12月の日野市議会で不登校児童の支援、家庭の経済的支援について請願を提出された)、藤森毅氏(日本共産党文教委員会責任者)がパネリストでした。
パネリストのみなさんの話には、共感しきりでした。
※誤解がないように記載します。
私は共産党員ではありません。
特定の政治政党には入っておりません。
また、特定の主義主張の議員さんを支援しているわけでもありません。
不登校児童の支援やフリースクール運営上の課題などについては、党派を問わず、すべての政治政党の議員、行政(東京都、日野市など)に、話したり訴えてきています。
市民活動でフリースクールを運営している関係上、あまり特定の政治での発言をすると誤解を招くかもしれないのですが、子供たちの現状や困っていること、誤解があることなど話す機会があれば、どこへでも私は出て行って発言したいと思っております。あくまでも子どもの代弁者としてです。
パネリストの皆さんの話を聞いたときに感じたこと、会場からの意見交換などの感想です。
まず不登校=いじめ被害者
不登校=発達障害者
という思い込みやイメージが先行しているため、そこは違うのではないかと言うことです。
私は障害があることにマイナスイメージは持っておりません。あってもなくてもそれはその人の個性、障害を負っていることが悪いことであるとも思いません。
1番困っているのはご本人です。
ただ、不登校=〇〇障害、発達障害と言うレッテル張りは1番危険であり、それは間違えたイメージであると言うことをお断りしておきたかったのです。
元気で、自分の意見が言える、政治についてオカシサを感じて大人社会の歪みを鋭く指摘できる、特定の分野の得意がある、感性が豊か、飛び級で学ぶことの方が合っている、など優れた特性を持つお子さんが多いです。
学校に行けなかったこと、行かなくなったことが、さも犯罪のように悪いことと言うイメージが先行しがちです。
義務教育なのだから、義務を果たしてない子どもたちが悪い保護者が悪いと言うことも間違いです。
誤解を解きたいです。義務教育の義務は国や自治体、保護者大人にあるべき義務です。
子どもが選択できる、子ども自身が学校に行く行かないは選べる権利があると言うことを知っていただきたいです。
周りの大人は、子どもの選択をサポートしていく事が一番求められます。
(学校は、無理矢理引っ張って行って行かせる場所ではありません)
その土台にある考え方は、子どもの権利条約と言う国際法です。
日本も1996年に批准をしています。
また、日野市子ども条例と言う日野市独自の条例にも、子どもの人権についての保護を明文化されています。
具体的に簡単に言うと、子どもの意見表明権、子どもが嫌な事は拒否する権利、参加する権利、弁明議会の権利等があります。
しかし、なんでもかんでも嫌な事は拒否できると言うわがままな考えのことではありません。
子どもたちの声を聞くと言うことを軽視してきた日本社会。
閉塞感を感じる子どもの気持ち、管理が行き過ぎた教育に疑問を挟む余地もない位に子どもたちは疲弊しています。
学校批判や文科省批判をしたいわけでは無いのです。
先生たちも管理されて疲弊して命を削っておられる現状私は心を痛めます。
ある学校の先生の心の声を聞いた時がありました。『子どもたちを管理したいわけでは無いのですが、私自身が管理されて監視がだんだんと厳しくなっているのが現実なんです。管理されていると知らず知らず、無意識のうちに子どもを管理してしまうと言う悪循環に陥ってしまってます。』
という感想でした。
ここに書いた全てを今日の話の中で私が発言できたわけでは無いのですが、子どもの声を聞いて叫びを聞いてと言うことを私は1番訴えたかったです。
付け加えて現場の先生方の大変な思いも理解していく必要があると私は思っております。
のびの〜びの子どもたちに今日話をする機会があるから、何か希望することあるかなぁと聞いた意見をいくつかご紹介します。
・ある中学校では、他クラス進入禁止と言うルールがあるそうです。それはなぜなのかと言う疑問でした。(小学校まではそのようなルールはなかったです)
・給食の時間が10分と短いため、食べるのが急いで食べなければならず、詰め込んで味わうこともできません。
また給食中はおしゃべりしてはいけませんと言う注意があるため、給食の時間が急ぎで詰め込んで流し込むだけと言う苦しい時間です。(中1)
・クラス単位での移動やクラスで固定化されているため、女子の場合はグループができます。グループから離れたり1人でいることが変人扱いおかしいと批判されたりします。ひとりでいる時間が好きな子もいることを知って欲しい。息苦しいし、固定化されるようなクラスではなく、授業を選択などできないのかなと希望します。(小6)
・授業が始まる前に、5分間前着席と言うルールがあります。休み時間が前の授業の関係で遅れてるとトイレに行ったりする時間も忙しくて帰ってくると5分前よりも押してしまって間に合わない場合もあります。
けれども、そのルールに従わないと先生から注意されたりして辛いです。(中3)
合理的な理由や、管理する理由なども子どもたちにわかるように説明が必要だなと感じています。
もっと心に余裕を持って、本来の目的は何なのか、教育の目的は子供たちにあると言うことを再度考察していくことが求められるのではないかと思っております。
何度も書きますが、学校批判や先生たちを批判してるわけではありません。
先生方は本当に頭が下がる位頑張っておられるし骨身を削っておられます。
同調圧力、管理教育、日本独特な教育制度を見直す時期が来ているのではないでしょうか。
また私が心配しているのはおとなしく疑問も持たず、意見も言わず、大人しく従って学校に行ってる側の子ども達たちであると感じています。(嫌だけど行っている)
声を上げて直感で嫌な事は嫌だ、おかしいことおかしいと声を上げてる子どもたちはまだ潰されていない、まだ健全であると私は感じるのです。
(学校が楽しくて合っている場合もあるので、その場合はいいのでは、と思います。)
そのために体や心が悲鳴を上げて叫んでいると言うことを、自分自身で受け止めて言語化できないけれども、何故か学校には足が向かないと言う子どもの声を受け止める必要があると思います。
学校に行かない子どもたちを責めたり批判したり、甘えだからと叱りつけたり、障害だからと言うレッテル張りをする前に、約80年間変わらずに管理教育をしてきた学校のあり方自体を見直す時期がきています。
コロナ禍の3年間で、子どもたちのイベントや行事がことごとく中止されたり無くなりました。
感染症対策で子どもと子どもの触れ合いや楽しく語り合って給食を食べると言うことも失われた3年間でした。
マスクを強制されてマラソンをしたり、徒競走したりと言うことも行われてきました。
科学的根拠がある感染症対策ならまだ納得が行くのですが、ここまでの行き過ぎた管理強制は果たして必要だったのか、再度考察していくべきだと思います。
コロナ禍の3年間で、義務教育期間だった子どもたちの中で、不登校と呼ばれる学校行かない選択をした子どもたちの数が大幅に増加していると言う事の原因。
コロナ禍での行き過ぎた感染症対策があったのではないかと私は思っております。
パネリストの藤森氏がおっしゃっていた、傷ついた子供たちの心を癒す、そのことを先に始めない限りは、子どもたちを支援する事は難しい、と。
なぜ傷つけられたのか、傷つけたのは何だったのか、そのことを深掘りしていかない限りは、どんどんどんどんこの状況が進んでいくばかりだと思います。
学校に行かなくてもいいよね。そうだよねと言うことを保護者の人が受け止めることが1番大切とパネリストの荒川さんもおっしゃっていました。
私も共感いたします。
学校に行きたくないんだ。そうなんだねということでまず受け止める。なんで行きたくないのかなあって言うことをゆっくり時間をかけて聞いていく。そして学校に戻すことを目的にしない。
それだけでも子どもが自由になり心の余裕が出るのではないでしょうか。
子どもが学習をする場所は学校でだけではありません。
学ぶ場所も学校だけではありません。
集団生活を学べる場所も学校だけではないです。
スポーツにチームに入ったり、野球バスケットテニス、そういうところからも学べるはずです。
学校に戻すことを目的にせず、一番の目的は子どもが将来大人になって自立して仕事をしていく、社会人になっていく、そのことを1番の目的にしていくべきではないでしょうか。
そのための学ぶ場所が家庭であったり、ホームスクーリングであったり、フリースクールであったり、塾であったり、習い事であったり、趣味であったり、いろんな場所で選択していけるのがベストではないでしょうか。
寺子屋のびの〜び
森美歌